映画「パンターニ -海賊と呼ばれたサイクリスト-」雑感。

私がマルコ・パンターニを初めて知ったのは、彼の訃報でした。

 

98年のダブルツール達成で国民的英雄としてどこに行っても熱烈な歓迎を受けていた彼が、翌年のジロでヘマトクリット値の異常値を検出されてジロを追放され、練習中に後をつけてきた車からイカサマと罵声を浴びせられる屈辱。選手生命を絶たれる寸前の大怪我から復活し「不屈の精神」と讃えられた男が、ドーピング問題に巻き込まれたのを周囲の人間から「はめられた」と感じて自暴自棄になりコカインに手を出す姿。
まるでスプリンターのように、何もかも置き去りにするダンシングで坂を駆け上っていた彼が、何故あのような孤独な死を迎えねばならなかったのか。

…基本的に故人讃歌映画なので内容もスター選手の栄光と転落というありがちなシナリオです。99年ジロのパンターニの追放理由も薬物使用というより「ヘマトクリット値の異常」で、本人も周囲の人間もあのタイミングは何かおかしい、何かの陰謀に巻き込まれのでは、という持論展開で進んでいます(実際のところどうだったのかはエンディングで一応さらっと他の選手のことも含めて触れています。ご存知の方も多いと思うのであえてここでは触れませんが)。
実は鍵になっているのが、彼が初めてのプロチーム入りが決まった前夜の「自転車選手になりたくない」という彼の訴えではないかと私は思っています。

オペラシオン・プエルト以前のドーピングスキャンダルを殆ど知らない身としては資料映像としても興味深いシーンが多かったです。フェスティナ事件で逮捕者が出た直後の記者会見で泣き崩れる選手、無人のTTスタート台、ストライキを起こしてコース上に座り込む選手、数年後に再び組織的ドーピングスキャンダルが発覚し警察に連行される選手…選手は結局大きなうねりの中でただの小さな駒でしかなく、パンターニもその中で抗おうとする選手のひとりだった、ひとりでしかなかった。ただひとつの駒としてはあまりにも存在が大きくなりすぎ、故に堕ちたヒーローにならざるを得なかったのではないかと。
昨今、有力選手に対してファンや観客からドーピングを疑う罵声が浴びせられるシーンをよく目にして胸が痛いのですが、それも結局、彼らの姿に感動した自分に失望したくない故の予防線なのだろうなと改めて感じました。…共感はしないけど。

彼が活躍していた時代から10年以上経ち、ランス・アームストロングの告白を筆頭に、当時はドーピングが当たり前のように行われていたことがやっと明るみに出てきた昨今。当時の資料映像としては興味深く見られましたが、お世辞にも万人向けとは言いがたい映画です。それでも、ざらついた映像の中でラルプ・デュエズやモンバントゥーを駆け上がっていったパンターニや、細いフレームと派手なジャージでひまわり畑の中を突っ切るプロトンにほんの少し目頭が熱くなった自分がいたのは事実です。
ランス・アームストロングより1歳年上、もし生きていたら今年で45歳のパンターニ。盛大にとり行われたパンターニの葬儀に駆けつけた大勢の人の泣き叫ぶ姿に、何故もっと早く誰か彼を救ってあげられなかったのかというやりきれなさを覚えると同時に、彼の死に涙を流した人があんなにもいたという事実がせめて天国の彼に届けばいいなと願ってやみません。